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身体哲学研究所のホームページをリニューアル致しました。 |

「Life」ということばはいくつかの重要な意味があります。
まず大元には“生命”、そしてその生命を生きる“生存”、“生活”、“人生”、そしてその“生涯”、また、人間も含めて動物や植物といった“生命体”も表わします。
そして最後に“元氣”、“精氣”、“活氣”、“生氣”という生き生きとした「生命エネルギー」という意味がありますが、これは日本語や中国語の“氣”に当ります。
身体哲学研究所は、こうした一般的なLifeの意味の奥に21世紀に生きる人間にとってさらに重要だと思われる実践的な知を見い出したいと思っています。
“Life”ということばを考えるとき、もっとも重要なことはそのことばの意味の中心に“生命”があることです。
そして、それは人間にとってもっとも大切なことでありながら、その“生命”というものの核心は21世紀の現在の科学をもってしても物質的に解明できていない。
そしておそらく、未来においても完全に解明されることはないでしょう。
哲学的、言語的にもよく分らない。
神話的には“生命”とは“神”であり“愛”だといいます。
ようするに人智を超えているというかよく分らないということです。
では、どうやって人間はこのLifeと付き合っていけばいいのでしょうか。
身体哲学研究所の見い出した答えは、頭や意識(心)やことばによる認識ではなく、感性や知覚を東洋で長い歴史をかけて育んできた実践的な行法的な方法によって磨ぎ上げ、身体でまるごとLifeと付き合っていこうということです。
そして、この方向で身体の知恵を身に付けて生きて行けば、“Life”の最高のあり方としての“永遠の命”を様々な形で実感、共感することができるのではないかということです。

「Body」は、いうまでもなく、からだ、身体、肉体を表わします。
英語の「Body」の他に、ギリシア語のSoma(ソーマ)、ラテン語のCorpus(コーパス)も身体を表わします。
それぞれ微妙なニュアンスの違いがありますが、心や精神を尊ぶ西洋ではギリシャ語のソーマもラテン語のコーパスも比較的価値の低いものとしてとらえられています。
その典型として、“ソーマ”にも“コーパス”にも生命の抜けた“屍体”という意味があるということです。
そんな訳もあって、身体哲学研究所では身体哲学をSomatic PhilosophyともCorporeal PhilosophyとはいわずにBody-Mind Philosophyと命名しました。
Body-Mindの意味は、Body(=Mind)つまり、Body including Mind(心を“入れ子構造”的に含んでいる)という意味です。
したがって、心身二元論の立場に立っているのではなく、心身二元論を超えているという意味です。
ところで、Bodyのことを日本語では“身”ともいいます。
これは、日本人の先駆的な身体哲学者市川浩が展開したところです。
この“身”(ということば=概念)は、まさに“心”とも“氣とも共有する使い方があるように、身体哲学研究所の身体観(身体論)とも多くの点で重なっています。
しかし、この市川浩の“身”では世界に向けて普遍的に語れない所があるので、身体哲学研究所ではBody-Mindで身体の本質を象徴させたいと思っています。
また、古い漢字で“體”(からだ)という字があります。
これも骨文法に基づき、骨を最重視する身体哲学研究所では身体の本体(機械的=有機的構造)をとらえる非常に示唆深い象形として時々用います。
さらには、身体や体を“からだ”(空だ)と呼ぶとき、仏教行法で行きついた宇宙的な“空”の状態をどこかで先取りしている感もあり、日本語(和語)の“からだ”は日本人の歴史的な身体性の高さを示していて大変興味深いと思います。

少し漠然とした「Mind」心ということばの代わりに近代の心理学や哲学あるいは現代の認知科学ではconsciousness(コンシャスネス・意識)ということばを使います。
この意識の研究は、ヨーロッパではフッサールの意識の現象学からメルロ=ポンティの知覚の現象学へと進み、アメリカではギブソンのアフォーダンスからアルヴァ・ノエのエナクティブ・アプローチへと移項し、結局、意識(心)は脳の中に存在するのではなく、身体が行動の中で外部環境との反応の関数として生み出すものだということになりました。
少し過激にいえば、ジョージ・レイコフとマーク・ジョンソンが『肉中の哲学』でいうように、「心はもともと身体性だ」(The mind is inherently embodied.)ということになります。
身体哲学研究所もMindに対して基本的に彼らと同じスタンスを取っています。
いい方を換えれば、こころは身体から独立しては存在し得ず、身体が変われば必然的に変わるということです。
もうひとつ西洋語で「Mind」(心)に深くつながることばは、心理学をPsychology(サイコロジー)という時のpsyche (サイケ)です。
サイケ(psyche)はギリシャ語のプシュケー(psyche)から来ていますが、プシュケーはもともと“氣息”(呼吸)という意味のことばで、そこから霊魂、つまりspiritという意味が派生してきました。
しかし、ここからもpsyche(心)のもとは身体から生まれているということが見てとれます。
分かりやすくいうと、心の発生源、あるいは心の深部は、身体の深部とつながっているということです。
現代社会には、心身症(psycho-somatic disease)という病が瀰漫(びまん)しています。
心身症とは、心が原因で身体が病んでしまう病気、あるいは身体が原因で心が病んでしまう病気です。
これを治すには身体を治すのが病理学的には本道ですが、不思議と心を治すことで身体が治ってしまうこともあります。
病理とは、実体のある身体のどこかの臓器がdisorderをきたすことですが、ヴァーチャルの世界に生きる人間の場合、実体のない心が病むというヴァーチャルな病が存在するということです。
これがもう一段階はみ出していくと、現代の日本にはびこりつつあるスピリチュアルという危険なヴァーチャルの世界になります。

ギリシア語の「Psyche」(プシュケー)ということばは、英語でサイケと発音することもあって、「心」や「魂」を表わすことばとして知られていますが、もとは「息吹き」、「氣息」、「呼吸」というサンスクリットの「プラーナ」(prana)、「アートマン」(atman)、ヘブライ語の「ルーアッハ」(ruah)、中国語、日本語の「氣」に当ることばです。
ここでは、まず、「Psyche」は「Life」(“生命”、“生活”、“人生”、“元氣”、“活氣”)の根源にあたることばだということを確認しておきたいと思います。
ちなみに名著『神々の沈黙』を書いたジュリアン・ジェインズによると、ギリシア文字が誕生した直後、紀元前9世紀頃に叙事詩として書きとめられた『イーリアス』では「psyche」は今日の「life(生命)」とまったく同じ用法で使われていると書いています。
「心」ということば(概念)が成立して間もない古代ギリシア語をもう少し調べてみると、「プネウマ」(pneuma)、「テューモス」(thumos)という同じように“呼吸”を表わすことばが見つかります。
「プネウマ」は地、水、火、風という宇宙の四大エレメントのひとつの“風”で、アナクシメネスは万物の元は「プネウマ」とし、「氣息」と「空氣」が宇宙を包むとしました。
「テューモス」はさらに興味深く、「呼吸」であり、人間に“精氣”を吹き込んだ結果としての「勇氣」であり、また「身体」でもあり「心」でもあるという西洋語では珍しく両義性をそなえた不思議なことばなのです。
具体的にいうと、『イーリアス』の中で、「テューモス」は最初“身体的な活動”を表わすことばとして使われますが、徐々に「怒り」、「いらだち」のような“体内の感覚の高まり”を指すようになり、やがて、戦いたくてうずうずしている“内面の感情”つまり、「心」を表わすようになるのです。
つまり、「Psyche」は、「Life」であり、かつ「Body」でも「Mind」でもあるということになります。
身体哲学研究所では、「Body」と「Mind」を統合させるという、たんに心身二元論を超えるだけでなく、「Life」と「Psyche」も含めて人間の、そして、あらゆる生物の「Life」と「Psyche」を統合して、新しい共生の道を歩みたいと思っています。