アメリカの<負の文化>を輸入したスピリチュアルブーム

心や頭を偏重し、身体をほとんど忘れてしまっているという状況はアメリカやヨーロッパに限らず、今、日本でも起こっています。

明治期に西欧化し、戦後急速にアメリカナイズした日本社会での昨今の浅薄なスピリチュアルブームの糸をたぐっていくと、グローバリズムと呼ばれる金と物の経済至上主義を背景に、日本の身体文化の衰弱とヨーロッパの哲学、アメリカ心理学のロゴス主義が生み出す柔弱な精神主義が浮き上がってきます。

身体と心の統合という意味でBody-Mind Philosophyと名乗る身体哲学研究所は、本来のラテン語スピリトゥス(Spiritus)から生じた高いレヴェルの精神、霊魂、氣骨、勇氣という意味の英語スピリット(spirit)、つまり鈴木大拙のいう“霊性”を少しも否定するつもりはありません。

 

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そもそもラテン語のスピリトゥス(Spiritus)はギリシア語のプシュケー(psyche)、プネウマ (pneuma)、テューモス(thumos)および、サンスクリットのプラーナ(prana)、アートマン(atman)、ヘブライ語のルーアッハ(ruah)と同じで元来は“氣息”を意味し、呼吸、氣血などと同様な根源的な生命の原理とされています。

しかし、ここ20年ほど、特に日本で使われている「スピリチュアル」、あるいは「スピリチュアリズム」ということばは、オーム真理教に象徴されるような二流の宗教的世界、あるいはもっと気楽で軽く、しかし限りなく怪しげで氣楽さと危険さの同居した精神世界を表わしています。

今、日本で使われている“スピリチュアル”(spiritual)ということば、あるいは精神世界ということばは、もともとヴェトナム戦争で泥沼にはまり込んだ1960年代以降のアメリカの若者が物質・機械文明への抵抗として主張しだしたものです。

もう少し遡れば、20世紀のはじめから、表向きプラグマティズムのアメリカは、その裏側ではスウェーデンボルグの神秘主義的なものにかなり深い影響を受けていました。

ともかく、60年代、70年代のアメリカのスピリチュアル指向は、その後、いわゆるニューエイジといわれた人たちに引き継がれていきます。

しかし、ここで心理学が加わり、中途半端にロゴス化されたスピリチュアルな世界はウィリアム・ジェイムスからもスウェーデンボルグからも離れて、必然的にその質を落としていきました。

いや、もっとはっきりいえば、今の日本のスピリチュアルブームは輸入されたそうしたアメリカの二流精神文化に影響されるところがはなはだ大きいということです。

トランスパーソナル、その他、アメリカ心理学をベースにしたセラピー系の精神世界を始めとしたアメリカのスピリチュアル・ワールドを身体哲学研究所が二流ないし一流半の文化だとするのには、2つの明確な理由があります。

ひとつは、F.に書いたように、“アメリカ人の身体性の成熟度”が非常に低い、したがって、そこにはしっかりした身体技法が欠けているということ。

<習い事文化>のないアメリカでは、地道に薄紙を重ねていくような何よりも根氣とねばり強さを必要とする東洋的な“行法”の厳しさを理解することはほとんど不可能でしょう。

もちろんアメリカ人にも道を求めるのに熱心な人もねばり強い人もいることはいるでしょう。

しかし、坐禅の修行を端々と5年、10年と続けていくことと、映画で『ロッキー』が強敵に勝ち、ヒーローになるために苦行のまねごとをすることとは似て否なるものがあるのです。

現代社会では、「カッコいいから武道を始める」ことと同様に、「カッコいいから坐禅を始める」ということも基本的に拒否するつもりはありません。

しかし、いうまでもありませんが、「カッコいい」からだけでは、武道も坐禅も続きません。

ある段階以上の身体技法、あるいは身体行法を修得するには少なからぬ時間と、簡単には言語化(方法化)しにくいものの実質的な修得法が必ず経験知として必要になるのです。

残念ながら、そうしたものを育てる経験知としての文化がアメリカには欠けているということです。

ようするに、アメリカ発のスピリチュアル・ワールドには一定以上の身体性を養成するメソッドがないということです。

例えば、アメリカ心理学系のセラピーに用いる程度の呼吸法やイメージ法、自己暗示法では、とても現代人を身体のレヴェルからの心身の統一に導くことはできません。

では、そこをどう補っているのでしょうか。

それは、一見非常によくできた理論、つまり、ロゴス(頭)で補っているのです。

私たちの知る限り、アメリカやヨーロッパで現在一流といわれている心理学系セラピー、身体調整法(治療法)セミナーにいくつか参加した経験のある感性の豊かで知的な日本人は、異口同音に西欧ではほとんど実質的に内容のない身体技法や治療法を実に理論的に上手にもっともらしく教えていますよ、といいます。

いい換えれば、これはEで述べたような西欧のロゴス主義、精神主義が、つまり、頭(ロゴス)や心(精神)が本来非言語的な身体の領域の未熟を補おうとしてはみ出してきてしまっているともいえましょう。

具体的にいうとどういうことか、心身の統合、調和という最終目標を達成する方法および構図において、階層的に上位の心(精神、脳、言語)が下位の身体をコントロールするという形(発想)になってしまうのです。

Eで触れた哲学者木田元のことばに戻り、ロゴス主義、精神主義を確認してみたいと思います。

哲学者木田元は精神科医計見一雄との対談『精神の哲学・肉体の哲学』でメルロ=ポンティの哲学について解説しながら、“修行に積んだ高僧や武術の達人についてこう述べます。

この<精神>とか<心>とか呼ばれる高次の構造も、いったん成立すれば、絶対安定というわけではなく、空腹だとか寝不足だとかいった足場になった生理的過程のちょっとした不具合だけでもその高次の構造が弛緩したり統合力を減少させたりすることがありますし、一方、修行を積んだ高僧とか武術の達人とかの場合、この高次の構造が、足場になった身体的、生理的過程を完全にコントロールして、常人には不可能な心身の統一や高度の運動を実現できるようになるということなんでしょうね。

ここには日本人でありながら長く西洋の哲学(ロゴス)を学んだ者の弱点が表れています。

“修行を積んだ高僧とか武術の達人とかの場合、この高次の構造(<精神>とか<心>)が足場になった身体的、生理的過程を完全にコントロール”するのではないのです。

全く逆で、足場になっている身体が、よく修行できて、自在性をもっていると一般に高次の構造と思われているが、実は様々なもろさを持っている頭や精神のイレギュラーに起るブレを未然に防いでくれるのです。

つまり、恐怖を目の前にして普通なら思わず身体が硬直したり、萎縮したりする寸前に、あるいは逆に暴走したりする寸前に、その大元の心や精神の動揺を鎮めてくれるのです。

これもあくまで西洋の階層理論風に高いレヴェルの身体性が脳の引き起す行動を完全にコントロールするというのではなく、単にその時、瞬時に身体が自然に防いでくれるということなのです。

(「高僧や武術の達人の身体性」を詳しく知りたい人は、「武道神話」、「武道・武術の達人の身体と高僧の身体」を御覧下さい。)