アメリカ人の身体性の成熟度

先日テレビでアメリカ人の職人的な身体に対する基本スタンスおよび技術成熟度がよく表れている興味深い番組を見ました。

10名程の外国人が集まり、30年以上の経験を持つ日本料理の名人が「まだまだ修業がたりない」といったことについて意見を述べるという番組です。

まず、司会者が外国人に、日本の料理人のこのことばに同意できるかどうか聞くと、中国人と西欧人の一人だけが同意しましたが、他の外国人たちは、理解できないといいました。

30年も熱心に修行してきて名人といわれているにもかかわらず、なぜまだまだ修行がたりないというのかというわけです。

しかし、この料理人のことばは、職人という身体性を育ててきた日本の伝統文化の中にいる私たちにとっては、しごく当然な、いかにも日本人らしいことばなのです。

つまり、修行の道に終わりはないということです。

名人の誉れ高かった文楽の越路太夫はおしまれて引退した時、「芸の道を極めるには一生では短すぎた」という有名なことばを残しました。

文楽に限らず、能でも狂言でも「四十、五十ははなたれ小僧」といいます。

中国人がこうした身体文化を共有していることはよく分ります。

料理人のことばが理解できないといったアメリカ人は、私なら数年料理のトレーニングをした時点で、私の料理は最高のものだというというのです。

少なくとも、自分が30年以上の経験を持つ名人に5年習ったとすれば、その名人の到達した技量に自分も到達したものと想定して自分の技量をアピールするというのです。

ここに、アメリカのビジネス界、経営学の世界で広く行き渡った“プレゼンテーション理論”の原型とプラグマティズムの国に育ったアメリカ人の身体技術に対する基本的な姿勢を見る思いがします。

いい方を換えれば、アメリカ人は、いや、アメリカ人に限らず多くのヨーロッパ人も日本の職人のように言語的に方法化できていない、いやむしろ単なる方法化を超えた身体技術をひとつひとつコツコツと長い時間かけて完成に向けてねり上げていくということが苦手なのです。

あるいは、それは習い事という身体文化が欠けているために起る身体技術習得に対する未熟さだといった方がいいかもしれません。

例えば、極端な話日本に来たアメリカ人が呼吸法やヨーガをひと月ほど習い、非常によかったからといって帰ってから西海岸あたりで自分の教室を開いているといった話をよく聞きます。

これは習い事の歴史のある日本では考えられません。

武道でも書道でも、お茶でもお華でも、最低20年ほど習わなくては独立して自分の教室を持つことは考えられないのです。そのための目安として、段級位や免許が存在するのです。

仮に、非常にその道の才能があり数年で教える側に回っているとしても、それは師範代といってあくまで正規の師範(教師)の代用か助手という位置づけなのです。

これは個人の力量だけではなく、あくまでその世界での公約規準に則っていてそうなっているのです。

ところが、アメリカ人の場合は、そうした公的な習い事の世界が存在しませんから、自分がいいと思ったから、自分が教えられると思ったからという規準で万事ことが運ばれてしまうのです。

この場合、教える本人がまだ教えられる技量になくても、これはいいものだから一緒にやりましょうといった日本でいえば同好会の程度でも、実際にはお金を取り、その意味ではプロとして教えることが成立してしまっているのです。

もうひとつ、アメリカの社会では、身体の技術者として身体的技術修得にかけられる年月が日本や中国、そしてヨーロッパでもドイツやスイスといったクラフトマン(職人)文化のある国に比べて非常に短いということがあります。

例えば、戦後にドイツで興り、いまや世界中に広がっている靴マイスターという一人一人の足に合わせて靴を作る身体技術がありますが、この資格を取るのに本場ドイツでは解剖学から学ぶ専門学校での実地研修から始めて見習い期間を含めて7,8年の歳月を必要とします。

これがアメリカに入ると、1年たらずで習得できる専門技術になってしまうのです。

もちろんそこに見習い期間などは存在するはずもありません。

こうした文化的なアメリカ人の身体技術習得に対する成熟度の低さを考慮しないと心(意識)を身体と結びつけながら探求しようというアメリカの心理学セラピーの身体技法の未熟さを正しく理解することはとてもできないでしょう。