トランセンデンタール(超越性)とその身体的実感

ここでひとまずの締めくくりとして、高僧の境地、すなわち超越性(トランセンデンタール・transcendental)の身体的実感とはどんなものなのかという、
普通、哲学的論文や書物ではほとんどおめにかかれない部分について述べておきたいと思います。

006なぜ哲学的な探求として、この超越性の身体的実感という部分が書かれないのか。

それは、基本的に言語化が不可能だからです。したがって、哲学的に論理的、明示的に書いたとしたら、それは二次的、三次的な言語化なのでたちまち形骸化し、凡庸化をまぬがれないからです。

いい換えれば、仮に真実を身体的実感した人が書いたとしても、(超越性を身体的に体得している哲学者はごくまれですが)書いた瞬間にその哲学者の知的存在感やカリスマ性がたちまち薄まり崩壊してしまいかねないからです。

 

そうしたことを百も承知の上で、ここではあえて超越性を実現するとはどういうことかを、またその身体的実感とはどういうものなのかを(それがおそらく多くの人が一番知りたいことでしょうから)書いてみようと思います。それこそが、実践的な行法をベースにした身体哲学の使命であり、際立った特色だからです。

入り口は多少観念的、哲学的な超越性(トランセンデンタール)の解説から入ります。

「超越性」という時の“超越”とは一体「何からの超越なのか」ということを考えてみます。

まず、思い浮かぶのは、“今ある自分”、つまり、“現世的な自分”の超越ということでしょう。

この“今ある自分”を“現世的な自分”、そして“本来の自分”を“自己”と呼んでおくことにします。もちろんこれは特別なことではなく、哲学や心理学、宗教学ではよく行う用語法の整理です。さて、今ある“自我”を超えて本来の“自己”を見い出すことが超越性の第一歩だとして、その“自己”とはどんなものなのでしょうか。一般にここで“神仏”が登場することになります。仏教でいえば、「すべての人間には仏性がある」ということになり、日本仏教思想ではこれを“本覚思想”といいます。また、キリスト教の世界では、例えば「私の中に生きるキリスト」といういい方をします。もっともキリスト教の場合、「私の中に生きるキリスト」といっても、そのキリストをどう理解(解釈)するかで、(いわゆる三位一体におけるキリストと取るか、復活後の単なる人の子ではない神の子、あるいは神と取るかなど)、カトリックといわれる人々の中でもローマ時代から歴史的に様々に議論があり、後に生れたプロテスタントの中でもいろいろなとらえ方がありますが、ここではそうした問題には立ち入りません。

ともかく、“今ある自分”を超越する最初のきっかけであり、分りやすいその理解、了解が、自分の中にある本来の超越性への“氣づき”(アウェアネス・awareness)ということになります。

今、ひとまず、この自分の中に本来ある超越性を“神仏”といいましたが、現代的にいえばこれは“自然”といっても、あるいは“超自然”といってもいいと思います。

身体哲学研究所では、20世紀の多くの知識人が忌避してきた“神”や“仏”あるいは“宗教”ということばをあえて避けずに使います。

その理由のひとつは、19世紀、20世紀の近代合理主義の西欧世界が、言語で明確に語りえない神仏抜きにした科学の言語パラダイム(記述言語・認識言語)で構築されてきたのですが、今その欠陥がおおい隠せないほど明らかになっているということです。

それに付随して、21世紀には総合的言語パラダイムの回復あるいは進化として広い意味での宗教性が世界で復活してくるだろうということです。

二つ目は、現代日本の歴史的状況認識として、日本人はもともと神仏に対する宗教心が強いにもかかわらず、明治以降、特に戦後の行政的、市場的西欧合理主義摂取により、多くの日本人が自らの本心を表面上偽って生活してきたことの無理が、程度の低いスピリチュアルブームや若者の心身症という心の交流不全症候群などに顕著に表われてきているということです。

(統計によると現代の日本人は、いわゆる宗派的宗教性の強い特定の宗教教団に対しては強いアレルギー反応を示す一方で、いわゆる“宗教的なもの”への関心は非常に高いという。)

三つ目は、身体哲学の本質ともいうべき身体のとらえ方にかかわることです。

身体哲学では、身体を科学(近代医学)に代表される西欧近代の認識論のように、自己(主体)の“外”に客観的な対象として身体を置いて眺めるというとらえ方(ここに生じる身体を身体哲学研究所では“外部身体”と呼びます)だけではなく、自己(主体)と身体(客体)を分離不可能な同一不可分なものとして、実感としては“内部”から立ち上る(感じる)身体(身体哲学研究所ではこれを“内部身体”と呼びます)としてもとらえます。

そして、後者の“内部身体”には必然的に“こころ”の世界が含まれ、その“こころ”の世界の最も深い無意識・前意識の部分は、“自然”あるいは“超自然”に通じる“魂”や“霊”といったいわゆるスピリチュアル(spiritual)な領域になります。

身体哲学では、一方で“骨文法”に則った明示的で合理的な身体技法(方法論)により、“外部身体”を調整して、健康で疲れにくく瞬発性に富み、高い運動能力を備えた現実的身体から実現への道を確実に導いていきますが、一方で日本語でいう“魂”、“霊”、西洋語でいう“spirit”(スピリット)、“psyche”(プシケー、サイケ)ということば(概念)の領域にも積極的に踏み込みます。具体的にいえば、坐禅Meditationを始めとした行法的な暗示性および非言語的な“内部身体”の育成法(方法論)によって超越性を体現する稽古を行います。

ここにおいて、身体哲学では超越性の象徴としての“神”や“仏”、そして“宗教”ということばを避けるどころか、一種のテクニカル・ターム(身体哲学内の専門用語)として“呼吸”や“氣息”、“氣”、“tumos”(テューモス)、“pneuma”(プネウマ)、“prana”(プラーナ)、“atman”(アートマン)、“ruah”(ルーアッハ)と同様に使います。

ここで、宗教的、哲学的意味での超越性についても、少し整理してみましょう。先に超越性とは今ある自分を超えることで、その時自分の中にある“超越性”(仏性やキリストや超自然)への“氣づき”(awareness)が超越性への入り口だといいました。

西田幾多郎からの勧めでプロテスタントの神学者カール・バルトを学び、後日本人としてはまれなほど高い境地のキリスト教神学者として生きた滝沢克己という宗教哲学者がいます。

その滝沢克己と同じく仏教にも詳しいキリスト教宗教哲学者八木誠一は、この“氣づき” awarenessとそれに次ぐ“目覚め”awakeningについてのテーマで長い間、論争と呼ぶには少し紳士的すぎる論争を続けていました。

“今ある自分”(自我)が“本来の自己”つまり、“超越的自己”となることを滝沢克己は「神われらと共にいます」(インマヌエル)といい、これを「神と人との第一義の接触」と名付けます。

ところが、一般に人間はこのことに氣づいていない。しかし、この「神と人との第一義の接触」がこのことに対する“目覚め”を生み出します。これを滝沢克己は「神と人との第二義の接触」と呼びます。これを仏教的に説明すれば、「神と人との第一義の接触」は「自分の中の仏性に目覚める」こと(本覚)であり、「神と人との第二義の接触」は悟りということになります。

私は『「阿修羅」の呼吸と身体~身体論の彼方へ~』の中で仏教の行法には「数息」、「相随」、「止観」、「還浄」の四段階があり、第一段階「数息」の終りに“氣づき”があり、第二段階の「相随」の終りに“目覚め”があり、第三段階の「止観」の終りに“悟り”があると書きました。

この場合、“氣づき”awarenessとは「自分の中」にいる「もう一人の自分」あるいは「本来的自己」への“氣づき”awarenessであり、その次の段階の“目覚め”awakeningとは、その「もう一人の自分」あるいは「本来的自己」が「仏性」または「キリスト」という“普遍的な存在”だという“目覚め”であり、さらにその上の“悟り”enlightenmentとは、自己とすべての他者と全宇宙(超自然)との“一体感”だといえましょう。

最後にそうした“超越性”の身体的実感をもう少し具体的に書きましょう。

“超越性”の実現の段階は、すなわち背骨および首、頭の浮き具合といい換えることができます。

つまり、背骨の中間地点である胸椎の下の5つが浮くこと、詳しくいうと24ある背骨の椎骨の下から6番目と7番目の胸椎の12番と11番が浮くことが“氣づき”awarenessであり、首とアゴが浮くこと、詳しくいうと頚椎の1番、2番と、下顎、特にオトガイが浮くことが“目覚め”awakeningであり、後側頭泉門(耳の後ろの乳様突起の下)と前側頭泉門(こめかみ・頷厭)と神庭(大泉門)が抜け、眉間・印堂(third eye)が開き、頭蓋骨の頭頂部が浮くことが“悟り”だということです。

加えてもう少し超越性が実現した時の身体的実感を付け加えると“氣づき” awarenessの時、身体から、肉および筋肉の感覚が全く消え、身体の内部空間が“空っぽ”あるいは“透けて見える”ような感じになり、同時に身体の内部と身体の外部の空間が連続しているように感じられるようになります。また、“目覚め”awakeningの時は、頭の中から自我や自己の根拠や痕跡が全く消え、時々、雲が流れすぎるような感じで過去の思いや未来のビジョンが去来していきますが、それを感じている意識は全く無人称な個人の意識を超えた意識であり無意識であるのです。また、時にこの神秘的な意識=無意識の身体意識は、頭からみるみる上昇して、自己の身体を含む下界をはるかに眺めていることも、時空を超えて無限にふくれ上がることも、ほとんど眠りについているように無辺世界をただよっていることもあります。“悟り”enlightenmentの時は、生きて今ここにあることに無上の至福感を感じることが多いのですが、不思議なほど感覚・感情の消えた静寂の中にいることもあります。

しかし、こうしたことはすべて本当は決して言語化することができない状況の中ですべて生起しているのです。