主任研究員のことば

堀井一弘・主任研究員

昨今の哲学ブームには目を見張るものがあります。昨年はマイケル・サンデルのハーバード大学の講義が放映され、その論理の明快さ、議論の巧みさ、聞き手を引きこむ双方向型の講義形式などが評判となり、世間の耳目を集めました。当初は一過性のブームと思われましたが、その後も書店の哲学コーナーに足を運ぶと、サンデルだけでなく、ニーチェや西洋哲学史、果ては仏教関連の書物までもがうず高く積み上げられています。テレビでも哲学や思想を扱う番組が放映され、再放送も行われています。東日本大震災を経た今でも、この傾向は大きくは変わっていません。

この背景にはどのような事情があるのでしょうか。現代の日本人が先の見えない不安を抱え、哲学のなかに何か解決のための知恵があるのではないかと漠然とした期待を抱いているということでしょうか。あるいは、サンデルが示したような明快な論理や議論の方法を哲学から学び、それをビジネスやプレゼンテーションのツールとして有効活用したいという実際的な要求から、哲学に注目している場合もあるかもしれません。

しかしながら哲学には、単なる論理学や、過去の賢人たちの教訓の集積といった、いわゆる「知」の次元を超えたものが、2000年以上にわたって脈々と受け継がれています。これを仮に哲学の「生命」と呼ぶことにすると、哲学を学ぶことの意味は、様々な知識やレトリックを身につけること以上に、そこに隠された哲人たちの生命に深く呼応し、それによって自分自身の生を目覚めさせるということでもあります。

日本の哲学の礎を築いた京都学派の一人に、西谷啓治(1900-1990)という人がいます。ある晩年の講義のなかで、西谷は次のようなことを言っています。自分の出身は、文化的知性的な生活からはまだ程遠い、北陸の貧しい漁どころである。漁民たちの生活は非常に刹那的で、いつ嵐に逢って死ぬかわからないという感覚をいつも持ちながら、たとえば漁が当たって儲けたりすると瞬く間に使ってしまう。ところがそういう無知ででたらめな生活のなかに、何か腹を据えた芯の強さがある。大学も出て知性も教養もある人間が崩れるような場合でも、決して崩れない何かがある、と言います。そして西谷はここに、人間の知性では届かないような、しかし人間の存在にとって何か本質的なものが顔をのぞかせている、と述べています。(『神秘思想史・信州講演』P.179-181)

さて、西谷が人間にとって本質的なものと呼んでいる事柄こそ、私が哲学の「生命」と呼ぶものにほかなりません。しかし、知性が届かない生命のようなものを云々するのは、哲学の一般的なイメージからは遠く離れているのではないでしょうか。哲学者とは、現世を超えた世界の真理を知性と言語によって把握できると信じている人種であり、「腹を据えた芯の強さ」のような身体的感覚的なものとは無縁であると考えられているのではないでしょうか。もちろん、これは哲学に対する誤解に起因するものだと私は考えますが、しかしだからこそなおのこと、身体哲学研究所が「身体哲学」ということを提示しなければならない理由があります。

身体哲学とは、従来の哲学の持つ「知」の側面と「生命」の側面とを、一人の人間の中でバランスよく統合しようとする試みです。しかし残念ながら、「生命」の側面は、哲学に対する一般的なイメージによって覆い隠されています。また西谷啓治が言うように、知性によっては捉えられない何者かであるということが、その隠蔽をますます助長します。身体哲学は、この歪みを取り除くべく、一方で「知」に対する抑制を教え、また他方で「生命」の火を各人の身体に点火しようとする実践であると言えます。「実践」という点は、いくら強調してもしすぎるということはないでしょう。なぜなら、知性一辺倒の哲学のイメージを崩すためには、身体を使った実践が有効であるだけでなく、哲学の「生命」が直覚されるのは各人の身体をおいてほかにないからです。

ところで私は、20世紀ドイツの哲学者、マルティン・ハイデッガーを研究することで哲学を始めました。ハイデッガーの書いたものは大変難解で、哲学の知識をある程度持っている人間からも敬遠される代物です。私自身も、ハイデッガーがいったい何を言おうとしているのか分かるようになるまで何年もかかりましたし、一度分かったと思ったところも、後で読み返してみると実は全然わかっていなかった、という苦い経験もたくさんありました。

しかしある時、それまでの私の読み方を完全に覆すような大きな気づきがありました。それは、ハイデッガーに限らず、大哲学者たちの思索のなかにある種の「飛躍」があるということでした。つまり、論理学を勉強したり、文献読解能力を鍛え上げたりすることによっては決して到達できない次元があって、それを前にしては知性の概念操作がただ空回りしてしまうような壁が、至る所にそびえているということでした。哲学者はその壁の上の高みから語りますが、壁の下の人間は、壁の上の眺望が全く理解できません。しかも、その壁を超えることは通常のやり方では無理であり、何か不思議な力がはたらいて、ある時ふっと飛躍させられるのでなければまず不可能なのです。

今にして思えば、この「飛躍」、すなわち大哲学者たちがそこから固有の哲学を打ち出していった「生命」の中への飛躍を、私は何も理解していなかったのです。これは大哲学者たちの隠された身体性でもあります。しかし文字通り「隠されて」いるわけですから、それを読み取ることは容易なことではありません。それは舞台裏の出来事であり、哲学者自身がそれを明かそうとしないだけでなく、そもそも原理上、言語によって何か一般的な情報を引き出すのとは全く異なったアプローチを読み手に要求してきます。ちょうど身体哲学が、単なる言語上の情報交換を超えたノンバーバルコミュニケーション・ボディコミュニケーションを実践者に課すのと同様に、その出来事は、読み手の身体に過去の哲学者の身体といわば感応し、その生命を直覚させることを要求するものです。そしてこのための方法が、実は東洋の思想においては「行法」として、西洋哲学に匹敵するほどの長い歴史を持ち、伝承されているものです。

「脱構築」で知られたフランスポストモダンの思想家ジャック・デリダは、あるインタビューの中で、もし過去の哲学者たちに質問できるとしたら、あなたは何を尋ねたいですかと聞かれ、「哲学者の性生活を尋ねたい」と答えたそうです。もちろん様々な解釈が可能ですが、私はユーモアに富んだ比喩として受け取って、哲学者の性生活に、隠された身体性ということを重ね合わせてみるのも悪くないと思っています。性生活ほど、隠されており、公に言語化されず、同時に身体や生命に直接関わってくるものもないでしょう。

西洋哲学史では、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」をもって近代の「意識の哲学」が始まったが、20世紀において、近代的自我の個別性・閉鎖性が招く様々なアポリアを克服するものとして、他者や共同体に結びつく「言語」がクローズアップされ、ここに哲学の「言語論的転回」が起こったと言われています。この後の哲学史はまだきちんと書かれてはいませんが、もし未来の哲学史を語ることが許されるなら、ますます東洋と西洋の文化が地球規模で融合するグローバル化のなかで、「身体の哲学」は、哲学の新しい流れとなる可能性を秘めていると思います。それは意識によっても言語によっても到達できなかった領野を身体と実践によって開拓し、それと同時に、過去の大哲学者たちの形而上学を、その出所=隠された身体性にまでさかのぼって再び生命を吹き込もうとする試みであります。