“垂直性”・“超越性”を今一度

身体哲学研究所では、人間の身体の“垂直性”ということば(概念)を“超越性”と同義語として使います。

では、人間の身体の“垂直性”とは何かについて説明することにします。

脊椎動物は、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類を問わずに、前方、つまり頭の方向に動くという生命活動の大原則があります。もう少し正確にいうと、脊椎動物の活動は、主要な生命エネルギーが背骨を通って頭の方向に流れることで成立しているということです。

身体哲学研究所では、これを生物学用語として狭い意味で使う“頭進”(とうしん)ということばから借りて、広く動物の生命活動全体を支えている根本基底にまで拡大して使っています。

分かりやすくもう一度いい直せば、すべて動物は背骨から頭に向かう生命エネルギーを活用して自由に動き生きているということです。

ところが、人間の場合は、直立二足歩行を始めたことで動物史上とんでもない大転換が起ってしまったのです。

つまり、人間の場合、頭の方向が“前方”ではなく“上方”になってしまったのです。

このことは、地上に生きる高等動物の生命活動が根底において素朴な力学対応として重力との拮抗の中で成り立っていたことを考えに入れると、まさに“決定的な大転換”なのです。

ふり返ってみれば、まさに魚から、両生類、爬虫類を経て四つ足の哺乳動物が地上に現れ、やがて人間が誕生するまでの動物進化の長い歴史は、動物と重力との戦いでした。

いい換えれば、水と太陽光を別にして“重力場”こそが高等生物を生み出した、もっとも唯物的で基底的な地球環境なのです。

(身体哲学のメインテーマのひとつはいかにして地球上で無機質の“もの”から“生物”が生じ、どのようにしてその“生物”(もの)に“心”や“精神”が生れたのかの解明にあります。)

動物とはいうまでもなく「動く物」ですが、「動」という漢字は分解すると“重”と“力”つまり“重力”となります。

“動く”ことは、もともと“重力”と深い関係があるということです。

もっともこれは、白川静の出現以来、最近ではブームにもなっている少々うがち過ぎた漢字の語源、象形の歴史的解明、あるいは教養の披瀝とは別種のことだと理解していただきたいと思います。

もっと単純に身体的な直観で、“動”という字をじっと見ていれば誰でも氣がつくことをいっているのです。ちなみに諸橋轍次・鎌田正・米山寅太郎著の『廣漢和辞典』で「動」を調べてみると、「重い物に力を加えてうごかすの意」とありますが、こんなことは辞書を引くまでもなく誰でも知っていることでしょう。

一方、白川静の『字統』の「動」の説明には、多くの人がこの辞書を引いて初めて知る含蓄が、おおよそ以下のように書いてあります。

「動」は「童」に通じ(「童」は普通の日本人が思い浮かべる“わらべ”、“子供”ではなく、“受刑者”あるいは“農奴”、“労働者”であり)、すなわち「動」とは「労役に服すること」すなわち「農耕に従うこと」。

この「動」の語源的解説も、「動」を人間の「動」に限定すれば、つまり、人間にとって「動く」とは、人間が社会的に食べていくために「動く」、「働く」という「働かざるもの食うべからず」という意味で、なかなか興味深いものだともいえましょう。

しかし、ここで私が強調したいことは、人間に限らずすべての動物にとっても、「動く」とは「重力」と拮抗して生きること、もっと強くいえば「重力」と闘いながら生きるということです。

三木成夫という優れた形態学者は、40億年に及ぶ生命進化の歴史劇の中で最大の場面(出来事)は、水の中にいた動物(魚)が行った海から陸に上がるという上陸劇だといいます。

水の中で1/6Gであった重力が、陸に上がると1G、何と6倍になってしまうのです。

動物が水棲の状態から陸棲に変わるということは、進化史上最大の重力との戦いだったのです。

陸の上、つまり、地上で「生きる」こと、地上で自由に「動く」ということは、まさに先に『廣漢和辞典』の説明にあったように「重い物に力を加えて動かす」ための強力な生命エネルギーが必要となります。それで、水中での“エラ”で行う“呼吸”程度では、そのエネルギーをまかなえなくなり、より強力な生命エネルギーを得るための“肺”での“呼吸”を発達させなければならなかったのです。

“肺”での強力な“呼吸”を獲得し、四つの足で地上を自由に動き回ることに成功した哺乳動物は、最後に、背骨を垂直に立てて二足で動くという、ある意味で動物の解剖学と生理学を無視したような形態と構造の不思議な身体を持つ人類というとんでもない動物を誕生させることになります。

解剖学を無視した形態とは、重い頭を背骨の先端の細い首の上に乗せて、きゃしゃな足腰で全体重を支えて動き回らなければならないということであり、生理学を無視した構造とは、足の先まで循環させた血液を重力に逆らって心臓まで戻さなければならないということです。

しかも、人間の頭(脳)の重さは、最終的に400万年程前に初めて立ち上がった時の3倍になってしまうのです。

こんな負担を背負いながらなぜ人間は直立姿勢を取るようになったのでしょうか。

人間がなぜ直立したか、二足歩行を行ったかということは、まだ人類学的にも、生物学的にも解明されていません。

しかし、多くの人類学者たちがいくつかの説を出しています。主なものを紹介すると以下のようになります。

“警戒説”。外敵から身を守るために、レッセーパンダやリスなども後足で立ち上がって周りを見回します。これは“地平線見渡し説”ともいいます。一時一番有力視されていた説です。

“運搬説”。子供の所にエサを持ち運ぶために両手の自由性が必要となり立ち上がったという説で、ラヴジョイやメアリー・リーキーが主張しています。

“冷却説”。これもピーター・ウィラーを始め多くの人が主張している説です。アフリカの日中の暑さを少しでもやわらげるのに、立ち上がるのが一番だというのです。立ち上がると頭や顔に受ける大地の反射熱が数度低くなるのです。

他に“長距離ランナー説”(ディヴィッド・R・キャリア)、“優位性誇示説”(ジャブリンスキー)、“採食説”(R・W・ランガム、K・D・ハント)があり、世界的なチンパンジーの研究で知られるジェーン・グドールやフランシス・ド・ヴァールは“浅瀬渡り説”を主張しています。実際雨期、乾期の差の著しいアフリカのサバンナでは雨期に急にできた川を横切って移動しなければならなくなり、浅瀬を直立して渡るチンパンジーの姿がよく見られます。

また、人類ハンター説を唱えるデスモンド・モリスは、武器(石斧や骨、棒)を持って立ち上がった(二足歩行した)という“闘争説”とでもいえる説明を行っています。

また、この他に「食料でもあり、武器にもなる骨を持ちあるくため」といった“運搬説”と“闘争説”の混合説などもあります。

こうしたそれなりにもっともらしい人類学者の説に対して、学問的説明になっていないと批判されている異色の説として、日本のサル学の創始者今西錦司の「立つべくして立った」というものがあります。

身体哲学研究所では、いづれの説も「なぜ人間が立ち上がったのか」という根本的、哲学的説明が十分にできていないという立場で、独自の説明をします。

身体哲学研究所では、二段階直立説(二段階人類誕生説)をかかげます。

今、述べたように人類学者たちは、様々な初期人類の行動形態や生活の変化に着眼して人間が立ち上がった原因を探っていますが、その垂直姿勢を可能にするフィジカルな骨格構造上の前準備としての進化(これを進化学では“前適応”と呼びます)をまず人間が立ち上がる第一段階として、あるいは真に立ち上がる(真に人間になる)準備段階(例えば背骨のS字彎曲など。)ととらえます。おそらくこれは数百万年前のことだったのでしょう。

次に、人間が真に立ち上がった第二段階(真に人間になった第二段階)、つまり、単にフィジカルに“立ち上がった”だけではなく、高い精神性(超越性)を持った人間として“立ち上がった”第二段階が生じたととらえます。

これは数万年前のことだったと身体哲学研究所では考えています。

そして、それは初めおそらくこんな出来事として生じたと思われます。

ある現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)の共同体の中で集団的、文化的契機、例えば、大量の獲物を得た猟の成功を祝う祭りなどで人々の歓喜がうず巻き、そこで歌い踊る身体の中で垂直の上昇エネルギーが異常に高められ、ついに一挙に吹き上がるようにして、まず特定の(宗教的)リーダー格の人間が背骨から頭蓋骨を突き抜けて天に向って勢いよく上昇する超越感に“目覚める”のです。

これは宗教体験といっても、神がかり的な憑依の現象といってもいいでしょう。

続いて、その超現実的(超越的)感覚に溢れ、カリスマテックなエネルギーを発するリーダーに導かれて周りの人々が、集団憑依現象にのみ込まれるように超現実感覚を共有するのです。最終的にはその場いた人は全員、超越的原体験を経験することになります。

原初的にそうしたと“超越性”を体験した人間は、祭り(集団憑依)の歓喜からさめても、超越的残滓として、自分自身や現実世界を天から眺めるような客観性や理性を現実的知性としてもつに至ることになるのです。

しかし、その人間の理性、知性が20世紀に入り政治・経済やテクノロジーと結びついてあまりにも現実的になり過ぎた(個人や特定の集団の利害に結びつき過ぎた)ので、9.11、3.11を経験した今、私たち人類は今一度初源の人間としての超越性を一人でも多くの人が取り戻す、あるいは新たに体験する必要がある。そこで、身体哲学研究所では、その本来大変高度な超越性を獲得する行法的な身体技法を、誰にでも短期間(6ヶ月から3年)で実現できるものとして実践指導しているというわけです。

最後に“超越性”を一番ひらたく説明しておくと、知識の量や普通でいう頭のよさとは一切関係ない、ここぞという時の“第六感”、“直観力”、“ひらめき能力”のことです。

すなわち、生身のいつどんな危険に遭遇するか分らない人間が生存していく上で一番大切な、しかし、文明国ではほとんど養成することのできなくなっている人間固有の、そして、人間の一番すぐれた身体能力だということになりましょう。