武道・武術の達人の身体と高僧の身体

武道・武術の達人の身体とはどんな身体性をもっているのでしょうか。

三木成夫や千谷七郎など多くの有能な知識人に不思議な影響力をもった在野の仏教哲学者富永半次郎の残した『剣道に於ける道』という異色の武道書があります。

この本は武道家や武道研究者にとっても非常に興味深いことが書かれていますが、実は武道の本というよりも仏教行法者の本といった方がいいものなのです。

私は富永半次郎を稀有の行法的仏教学者玉置康四郎とほとんど対(つい)にして思い浮かべてしまいます。

玉城康四郎は、仏教学者として歩んだ前半生を毎日坐禅に明け暮れながら、道元の『正法眼蔵』の仏教行法哲学を探求し、晩年は、シャカの悟りの行法哲学的中核は“ダンマ”にあったと喝破したのでした。

富永半次郎は、剣道・武道の奥義、極意とは単なる剣道の技法としての“刀法”を超えた“心法”ととらえます。しかし、ここで注意しなければならないのは、この“刀法”と“心法”はデカルト的な西洋の身心二元論ではなく、富永のいう“心法”は身体哲学研究所のいう行法的身体性、富永のことばでいえば、シャカの最期のことばヴァヤ・ダムマー・サンカーラー、つまり、自我を超えた無我正覚の境地の顕現としての身体をめざす行法的修行法ということになりましょう。

つまり、“刀法”と“心法”との区別は、並列の概念対比でも西洋哲学的な対立概念の対比でもなく、この“心法”には下部要素としての“刀法”が包摂されているということになります。

いい換えれば、この“心法”の“心”には“身体”が含まれる。もう少し正確にいえば、深い身体性としての“心”を体現した高いレヴェルの身体性を獲得する“身法”(心法=身法)だということなのです。

ともかく、『剣道に於ける道』でヴァヤ・ダムマー・サンカーラーに目覚めた仏教哲学者富永半次郎は剣道史の本流といわれる四流(中條流・神道流・鹿島流・陰ノ流)のおける奥義・極意を丁寧に検証していきます。

武道・武術の達人の身体ということを具体的に語る前にわざわざ富永半次郎の『剣道に於ける道』を持ち出したのは、武道・武術の達人の身体性の背後には神仏、あるいは神仏に象徴される超越者を前提とした行法があるということをまず確認しておきたかったということです。

一般化していうと、武道・武術の達人の身体とは、死に直面して恐れない身体性ということです。

しかし、この前にもう一段階の身体性を置く必要があるかもしれません。

それは自分が殺される前に平氣で人を殺せる身体性、あるいは、殺される前に相手を冷静に殺す身体性です。

これは宮本武蔵のことを思い出していただければいいでしょう。

もちろん、殺される前に相手を冷静に殺すことは、死を恐れて震えていてはかないません。少なくとも死の前で一瞬、現実としてのリアルな死を忘れる必要があります。

この死に直面して恐れないという一段階前の死を一瞬忘れるというレヴェルでも、ある意味では“悟り”の境地とかかわりがあるといえるかもしれません。

前者の「死に直面して恐れない」という現実を超えた境地を実現できるのが高僧の身体性だとすれば、後者のともかく「殺される前に相手を冷静に殺せる」という極限的現実の心身を実現できるのが武道・武術の達人の身体性だといえましょう。

具体的にいうと、「殺される前に冷静に相手を殺す」には、どんな時にも平然としているその静かな臨戦態勢の身体を支える地に足ついた足腰と、刀を持つ手首や肩に決して力が入らない柔軟な上半身が必要なのです。

人は恐怖を感じると手足がすくみます。したがって、決してすくまない手足が必要になります。

この「手足がすくむ」という場合の手足とは手首から先と足首から先です。

身体技法的にいえば、手根骨と足根骨をある段階までゆるめて自在にしておけば、「決してすくまない手足」は可能になります。

かなり重い剣を持たなければならない剣道、剣術の場合、特に手首のゆるみが重要になります。

『剣道に於ける道』には針谷夕雲の師小笠原玄信の編み出したという「八寸の延がね」という心法(極意)について書かれていますが、これも身体哲学的な身体技法として説明すれば、手首の自在さ、手根骨のゆるみにつきます。

富永半次郎は自分は剣道家ではないので、「八寸の延がね」とはどういうことをいっているのかよく分らないと断った上で、実際の刀の長さより八寸長い刀を使うか、刀を八寸しかないものとして使うかの二つが考えられるといい、「後世に伝えられたところから考えると、どうも氣持ちの上で八寸くらいにちぢめて刀を使ふのではないかと思はれます」と書いています。

もちろん、「八寸の延がね」とは実際の長い刀を八寸ぐらいの極く短いもののように自在に使いこなすという意味ですが、その時必要なのは手首、手根骨のゆるみになります。

次に肩や腰に力が入っても「殺される前に冷静に相手を殺す」身体は実現しません。

武道でよくいう「肩に力が入らない」身体を創ることは思いの外むずかしいことなのです。

これが実現するだけでも十分に達人の仲間入りができるでしょう。

人間は大脳が発達した動物なので、つい頭脳の司令で身体を動かしたくなります。

頭脳の司令でとは、随意筋を通じて手足を動かすということです。

この場合手足とは、腕や脚(arms and legs)という意味の手足ですが、この腕や脚に頭からの司令が入る拠点が肩と腰の筋肉なのです。

この肩と腰に完全に力が入らなくなるには、随意筋主導では動かない身体、いい換えれば、脳に関係なく骨主導と脊髄からの不随意筋の反射で動くような四肢動物や昆虫のような身体を創らなければなりません。

例えば、柳生新陰流では「神妙剣」や「無形の位」、「転」(まろばし)と呼ばれる「心法」、極意があります。

これも、普通でいう頭(自我)を消し去って随意筋が働かなくなった時に無心に動く身体ということになります。

前に述べた手根骨と足根骨がある段階までゆるめることと、今述べた随意筋主導で動かない身体を創ること、この二つが実現できれば、武道・武術の達人の身体は完成します。