武道神話

武道、武術の身体性はどのようなものなのでしょうか。

その前に現代における“武道”とはいかなるものなのかまず確認しておきたいと思います。

神戸女子大学の名物教授で思想家(フランス思想の研究家)でもある内田樹氏は、最近出た『武道的思考』の“まえがき”で「主観的願望を言わせていただければ」という前置きの後ではありますが、「本業は“武道家”です」といっています。

それで時々、「ウチダさんはどれぐらい強いんですか。」と聞かれるそうです。

それに対して内田氏は次のように書いています。

誰かと比べたことがないし、そもそも「強い」ということを基準に武道の修行をしていないので、答えようがありません。

こう答えておいて内田氏は、「武道の本旨は、“人間の生きる知恵と力を高めること”だといいます。

「どれくらい強いんですか」と聞かれて、武道家が答えに窮するというのは分らなくはありませんが、全体としてこの答えを見て、ケムにまかれたと思う人がほとんどではないでしょうか。

「どれくらい強いんですか」と聞かれて、それは私の武道の本質ではないというのはいいとして、武道の本旨は“人間の生きる知恵と力を高めること”というのは、武道を説明することばとしては抽象的でとりとめがなさすぎると思います。

例えば、逆に“人間の生きる知恵と力を高める”のは何でしょうといわれ、はい、それは“武道”ですと答えることのできる人はおそらく千人に一人、いや百万人に一人もいないでしょう。

講道館柔道を創った嘉納治五郎が明治のはじめに“精力善用、自他共栄”あるいは“精力善用、国民体育”といったのはそれなりによく分ります。

しかし、武道とは“人間の生きる知恵と力を高めること”といういい方は何より武道に通じる具体性に欠けるし、身体性が感じられないのです。

例えば、哲学の本を読むとか政治や経済を勉強するとか外国語を身につけるとかいったいわゆる頭の学習も、当然人間の生きる知恵と力を高めることでしょう。

その頭の学習と身体をメインに使う武道との違いが判然としないし、身体を使うものとしても趣味としてスポーツや芸道を身につけることや、音楽や絵画などの芸術に親しむことと武道とどう違うのかも分らないのです。

また、内田氏は“武道が想定しているのは危機的な状況です。自分の生きる知恵と力をすべて投じないと生き延びることができない状況です”とも書いています。

しかし、こうした危機的な状況を実際に想定しているといいうるような武道が現代の社会にはたして存在しているでしょうか。私には非常に疑問に思われます。

身体哲学研究所では、現実の世界で戦い(戦争以外)が禁じられた時点で武道が生き延びる道は2つ、スポーツ化するか、伝統文化として形骸化するしかないと考えています。

荻生徂徠は「武士道というものはない、『武芸』があるだけだ」という、いかにもリアリストの徂徠らしいことばを残しています。

加藤周一はこのことばを引いて『日本文学史序説』の中で『葉隠』に触れながら、「侍が戦っていたときに『武士道』はなかった。侍がもはや戦う必要がなくなってはじめて、『武士道』が生れたのである」と少々うがちすぎたいい方をしています。

ここでは一般に“武道”とは“武芸”(身体技法)をメインにすえ、“武士道”は“精神性”を強調するということを確認しておいてから、生死をかけた戦いが日常的に行われていた時代には武道は“殺傷技術”としても、死を目の前にしてもたじろがない“精神鍛錬法”としても存在意義があったのだといっておきましょう。

いづれにしても、平和な現代の武道を侍が常に刀という武器を携えて生きていた時代のような確かな実体がある武道として語ることには無理がある。強くいえば時代錯誤という他はないでしょうか。

もちろん、そのこととは別に身体を動かす時間がめっきりと減った現代の小,中学生に武道させればスポーツをさせるのと同様にある程度身体を強化することはできるでしょう。

いい換えると、現代という時代に内田氏が抱いているような氣持ちで武道家として生きていくには武道を何らかの形で美化し、武道神話という幻想の中で生きるしかないということです。

一般的にいって、ある武道やある流派の内側にいる人は暗黙にその武道や流派の創始者や達人といわれている人を神格化してしまいがちです。

例えば、内田氏の『武道的思考』にはこんな文章が見られます。

 

昭和18年、大陸戦線での合氣道門人のあまりの「殺傷技術の高さ」に衝撃を受けた陸軍幹部が合氣道開祖植芝盛平先生のもとを訪れたことがあった。剣道、柔道を廃し、今後軍事教練では合氣道を必修にする計画への協力を申し出たのである。開祖はそれを聴いて激怒し、「それは日本人全員を鬼にするということである」と一喝して、そのまま東京を去って、すべての武道団体との関係を絶ち、岩間に隠遁してしまわれた。

 

まず前半の「大陸戦線での合氣道門人のあまりの“殺傷技術の高さ”に衝撃を受けた陸軍幹部」という表現が、武道流派一門の内部でよく聞かされる典型的な“武道神話”といっていいでしょう。

多少なりとも本氣で武道の稽古をしたことのある人にとって、どんな武道を習おうとその門人の多くがみな天才的な使い手になることなどあり得ないということは常識です。

また、空手や中国拳法あるいはボクシングといった実践的な武道、格闘技の世界で、いわゆる実践(組手)稽古が全くなく、演武のみに終始する合氣道が、ほとんど実践として使えないということもよく知られています。

間違っても、当時の陸軍幹部が合氣道一門の“殺傷技術の高さ”に衝撃を受けることはありえないのです。

武道も宗教と同様に内に閉じた世界だけにこうした誇張や神格化が自然のこととして生じてしまうのです。

また『武道的思考』のあとがきで、内田氏は「武道の目的は、端的に“生き延びる”ことです」と書き、レヴィ=ストロースが「冒険家と旅が嫌いだ」といったことばを伏線に、「武士は用事のないところには行かない」という氏の師範のことばを引き、武道的ということは、アクティブにふるまうのではなく、毎日判で押したようなルーティンを繰り返すことだといいます。

そして、「レヴィ=ストロースは武道的に思考をする人だったのではないか」ともいいます。

私が現代においてなお生きている可能性のある“武道的身体”、あるいは身体は、「五感が鋭く、常に落ち着いていて、余計なことは考えず(直観を大切にしてぐだぐだ頭を使わない)外部の状況に的確に反応し、動く時無駄がなく敏捷な伝統的な日本人の高いレヴェルの身体性」ということになります。

つまり、私はレヴィ=ストロースがどう思考したのかにかかわりなく本来の武道的生き方とは、「思考せずにすべてを直観する生き方」だと考えています。

すなわち、ここにおいて内田氏の「武道的思考」とは、私にとって比喩としてもほとんど意味を持ち得ないということになります。

しかし、おそらくそうしたものが現代における武道、ヴァーチャルとしての武道ということなでしょう。