生命・身体と科学

現代人が生命や身体について考える時、いくつかの盲点があります。

それは多くの点で現代人の脳(大脳新皮質)が身体や世界を自在に動かし、管理していると錯覚する所からきています。

これは、暴君が国家全体を機能させているのは自分だとカン違いしているのに似ているといえましょう。

その思い違いは、脳の知である科学が身体や生命を十全に理解し、その科学に則ったテクノロジーが身体という生命体の生を最善に導き、その生命体が生きる環境を最も機能的に創造できると思っていることに及んでいます。

2011年3月11日に起きた人類史に残る東日本大震災、および福島第一原発事故はそうした科学および科学技術の盲点をさらけ出しました。

大震災が起きてちょうどひと月半たった4月26日現在、形だけの原発事故収集への工程表は発表されましたが、実質的には福島第一原発の事故処理のメドは全くといっていいほど立っていません。

また、原子力発電そのものをどう見直したらいいのかという21世紀の人間の未来、人類の存亡にかかわる重要な議論も内外の政治家や科学者、財界人、知識人、一般の人々の間で様々に分れて全く具体的解決の方向が見えていません。

科学者の考えにしても、日本人はまだ、科学は普遍的真理をめざしているので当然科学者も真理をめざしてみな真摯に生きていると思い込んでいる人が少なくありませんが、数年前、アメリカで話題になったように、科学者は一般に野心が強く、非常にエゴイスティックな人たちだともいえるのです。

今回の原発事故に対しても、科学者にニュートラルな立場の意見を聞こうというのがそもそも無理な話なのでしょう。

それに一般の人には原発推進派の御用学者とそうでない人の区別もつきません。

そもそもあらゆる議論は、それぞれの論者が暗黙に生活レヴェルで背負った利害をベースになされるので、立場の違った人々の議論をひとつにまとめることなど原理的に不可能なのです。

だからといって、今売り出し中のハーヴァード大学の政治哲学者マイケル・サンデルのようにいくら上手に複数の異なる意見を多元的、相対的に整理してみせた所で、学生相手の大学のゼミならともかく、現実的にはほとんど何も生み出しません。

しかし、例外的な不思議な状況というものがあり得るのです。

今回の東日本大震災、福島第一原発事故がそれに当ります。

普通、現実的に限定されたある状況の中で何をどうしたらいいかを考える状況論と普遍的本質的にこの問題は本当はどう考えるのが正しいかという本質論は位相を異にします。

しかし、今回のケースは例外的に状況論が本質論に直結するという様相を呈しているように思えます。

つまり、どんな立場にいようと最終的に原発を止めるか、止めないかという問いに結論を出さなければならなくなると思われるのです。

ここからが本題なのですが、具体的にどういうことか説明しましょう。

科学および科学技術の発達によっていつのまにか「原子力の平和利用」ということばが当り前のこととして使われるようになりました。

10年程前から世界中で話題になっている地球温暖化対策としてのCO2削減という国際的議論の中では、原発はクリーンエネルギーに位置づけられてさえいます。

そうした時代の中で体制勢力の利益に結びついた流れに乗った原発の認識(状況論)が、大震災後、原発事故後というまさに危機的な状況の中で、原発について本質的に問い直すこと(本質論)にならざるを得なくなったということです。

結論を先にいうと、人類は原発を最終的にすべて廃止すべきです。

それが生命と原子力という46億年に渡る地球生命史の関係性から導き出される唯一の答えなのです。

なぜなら、強い放射性物質が地表に存在している間、地球上には生命体は生れなかったのです。

日本は世界で唯一の原爆被曝国ですが、そのことが示した科学的事実は、原爆のような高い放射能を人体が受けると、遺伝子上の染色体がズタズタに引き裂かれ、永久に修復不能に陥ってしまうということです。

しかも、原子力は一度使ったら、不死身の悪魔を創ってしまうようなもので、地球外に捨てでもしない限り(そんなことをしたら、どんな天罰を受けるか知りませんが)、ほぼ永久に冷却管理し続けなければならないのです。

つまり、生命と原子力との共存は本質的に不可能だということです。

「原子力の平和利用」ということばは、現実の世界と無関係に創られた“ヴァーチャルのことば”、もっとはっきりいえば“うそのことば”なのです。

いい方を換えれば、原子力の利用という発想は、人間の脳という暴君の知のおごりだともいえましょう。

状況論と本質論のところに戻れば、今回の福島第一原発の事故を、自分や家族、子供や孫たち、友人や同朋の生命の危機と素直に考えれば、いや、身体で感じれば、つまり、全人類、全生命にとって危機的な状況ととらえれば、今すぐには総て廃棄できなくても長期的には全廃すべきという本質的解決の立場を取るしかないということです。

もちろん、今回の福島第一原発の事故は他人ごとで、自分たちには関係ないという立場(状況論)に立ち、原発を今後も維持、推進しようと考えることも可能でしょう。

しかし、この人たちは実は決定的な状況判断のミスを犯しており、そうした状況論を一歩も出ようとしない限り、この人たちの子孫は遅かれ早かれ滅びていく運命にあるとさえいえます。

すなわち、その状況論は自分や自分の子孫たちの生命の本質(天寿を全うして生き続けるということ)を長い目で否定することになるという点において、逆説的に本質論にぶつからざるを得ないということです。

やはり、この福島第一原発事故によって引き起こされた状況論は本質論につながらざるを得ないといえるでしょう。

いずれにしても、2011年3月11日の日本に、いや全人類に未曾有の被害をもたらした東日本大震災・福島第一原発事故は、科学という頭脳によるヴァーチャルな認識知と身体あるいは生命という人間にとってのリアルな実在との関係について実に多くのことを私たちに教えてくれました。

身体哲学研究所は何よりも、科学のようなそれ自体で倫理(身体的、情緒的判断基準)をもたない頭の知の一人歩きを大元でチェックする身体知の育成をメインテーマにかかげています。