身体とは

脳ブームが続いている日本では、まだ何でも脳だと思っている人が少なくありませんが、最新の認知科学では、意識(心)は頭の中にはないといわれるようになりました。

つまり、心は感覚と行為という身体と外部環境との関係の中で生み出されるということです。

また、ある文化人類学者は私の身体、あなたの身体等々ということばづかいは誤りである。「私」が独立して存在し、その私が身体を所有しているわけではない。私=身体、あなた=身体であり、私たちはそれ以外の存在形態をもたない、といいます。

それにもかかわらず、ひと昔前まで身体は、道具のようなものだとか、精神や心、魂を入れる入れ物だとか、せいぜいよく出来た機械だといった程度にしか認識されませんでした。

古来多くの民族で心や精神、魂は普遍的な尊いものと尊重されましたが、その反面身体は不完全で朽ちやすいもの、あるいは、精神や心、魂を閉じ込め拘束する邪悪なものとさえ思われてきたからです。

こうした事情は20世紀まで世界の歴史を動かしてきた西欧的な知の原動力であるプラトンやアリストテレスのギリシャ哲学でも、ユダヤキリスト教の神学でも基本的にそう変わりません。

19世紀末からそうした形而上学(超自然学)への反動として、生の哲学や唯物論、さらには自然科学的な機械論的人間観(身体観)も現れてきました。

21世紀のとば口といえる現在は、現実的なグローヴァル経済の破綻した混乱状況の中で、人間観、身体観はかなり混沌としているといえます。

しかし、大きな流れとして、20世紀が物理学経済学帝国主義の時代だとすれば、21世紀はDNAの発見を始めとした分子生物学や進化生物学、動物学、人類学、環境学といった共存のための真の意味で民主的な生命科学、人間諸科学の時代になることは間違いありません。

なぜならば、このままでは人類社会は自らの愚かさと無知によって内側から崩壊してしまうからです。

ではどうしたらいいのか。では身体をどう扱えたらいいのか。少なくとも精神や心、魂といった実体の定かでないものを盲目的に珍重するのではなく、まず人間の生を実質的に支える物でも機械でもない日々生成し続ける生物学的な身体だと正しく認識することです。このことは高齢化する現代社会において健康が様々な形で問題にされていることからいっても至極当然のことです。

しかし、身体はただ正しく認識しただけではダメなのです。自分(身体)を知っただけではダメで、自分(身体)を変えていかなければダメだ、少し哲学的にいえば身体の世界では“認識論”(知る)だけではダメ(知ったつもりなだけ)で、“存在論”(活動する、生きる)を組み込むということです。分かりやすくいえば少しでもよりよい状態で生きられるように日々メンテナンスしていかなければならないのです。

身体は何もしないでいい状態を維持することはできません。

身体は日々調整を行うことでより進歩、改善されていくか、自然にまかせて好き勝手生きて、ある時点から坂道を転がり落ちるように朽ちていくかの2つに1つしかないのです。

もちろん、身体の重要さを強調しているからといって、精神や心、魂を蔑視しているわけではありません。

むしろ、今までの心と身体を分離して考えている心身二元論を脱却するものとして、精神や心、魂も実は身体に支えられているではないかと、もう少し突っ込んで言うと、身体の深部から精神や心、魂も生じているのではないかと言う観点から、私たちは心と身体を不可分のものとして捉えています.

ここで重要なことは精神や心、魂とつながっている身体は決して、単なる物でも、決まりきった動きをするよく出来た機械でもない、小宇宙ともいえるある意味では神秘的な“生ける身体(自然)”だということです。

身体哲学研究所では、この“生ける身体”を西洋の優れた身体哲学者であるニーチェやベルクソンやメルロ=ポンティがひたすらロゴス的な思索によって探求し、理論化(普遍化)したのとは異なり、自分自身の個別的な身体を出発点とした探求(行法)と洞察(直感)を積み重ねることによってあくまで実践的に身体を扱え、その身体を限りなく高めていく具体的な方法を提供します。

その意味では、身体哲学研究所は、一方で西洋的な言語化、方法論も十分活用しながら、最終的には、行法に導かれた東洋的な非言語的、直覚的身体知をより重視します。