身体哲学とは

ある人に、哲学の主要なテーマとして“生と死”の問題がある以上、哲学には身体が含まれているのではないですか。
それなのになぜあえて“身体哲学”といわなければならないのですか。と聞かれました。

この問いには私たちが身体哲学研究所を立ち上げた問題意識の核心が隠されているように思われます。

確かにギリシアの哲学でも身体はある程度は問題にされました。
ロック、バークリー、ヒュームといったイギリスの経験論哲学は感覚を哲学の柱にしましたし、フランスのベルグソンやメルロ=ポンティあるいはバタイユ、フーコー、ドゥルーズといった哲学者たちはより自覚的かつ総合的にある意味で身体の哲学を展開しています。
またドイツにしてもディルタイ、ニーチェ、ジンメルといった生の哲学といわれるものは明らかに広い意味で身体の哲学です。
生の哲学の源流はドイツロマン主義ですが、そこでは形態学を興したゲーテやクラーゲスがそれこそ解剖学に則り身体の基本構造の解明に迫っています。

しかし、西洋哲学の身体への探求はどこまでも言語を介しています。
伝統的な西洋哲学という言語の世界の探求を極限までつきつめたのはハイデガーでしょうが、“言葉の最も根源的な様式は「沈黙」である”(『存在と時間』)と書いたハイデガーも結局最後まで言語から開放されることはありませんでした。
ロゴスとラティオをベースにした西洋哲学にとってこれは当然の帰結といえるでしょう。
では、言語を介さずに直接に身体を(人間を、存在を)探求する方法はないのでしょうか。
いやあります。東洋の行法がそれに当ります。
その中で最も高いレヴェルで完成されたものはおそらく仏教行法でしょう。
この方法によって感じ取られ観えてきた身体を私たちは“内部身体”と呼んでいます。

この“内部身体”は「直覚身体」とも「直観身体」とも呼ぶことの可能な身体です。
“内部身体”はあるレヴェルまで達すると世界全体、あるいは宇宙につながっていくので、「内部世界身体」、あるいは「内部宇宙身体」と呼んでもいいのですが、ハイデガーの「世界内存在」と区別するためにも、観念的なものに、思弁的なものと誤解されないためにも“内部身体”と呼んでいます。
また、この“内部身体”は文字通りの意味で主体の確立された身体でもあるのですが、「主体身体」というと、西洋の主体・客体という対立概念における主体ととらえられかねないのでこれもやめることにします。

“内部身体”にあい対する概念は二つあり、ひとつは“外部身体”で、その典型は医学や科学があつかう「外部対象的身体」、一般にいう「客観的な身体」です。
そして、もうひとつは、言葉を介した身体への対象化というアプローチによって立ち現われる“間接身体”なのです。
その意味で“内部身体”とは人間にとっての“直接身体”だということになります。蛇足になるかもしれませんが、“外部身体”とは知覚によって対象化した身体という意味で、“間接身体”だということです。
鏡で見た自分の身体(間接身体)はすでに自分の身体(直接身体)ではないということです。

しかし、ここですべてをふり出しに戻すような難題にふたたび直面することになります。
“内部身体”、すなわち“直接身体”の感覚、手ごたえ、感応、あるいはそこでの風景、情景はそのままのものとして言語化できないのではないかということです。
その通り、できません。
まず、“内部身体”の本体は無意識の身体ですから、一人称化した主観的表現としても客観的な指示表出(伝達)としても言語化できません。
しかし、私たち身体哲学者はこの前に立ち止まらずにある意味では不可能への挑戦として前に進もうとする者たちだと思って下さい。

ここではひとまず三つの道を考えています。
ひとつ目は文字通り文学的エッセイとして語ることがありうると思っています。
しかし、ここには多少exclusiveな条件が付け加えられます。
まず、私たちの主宰する身体哲学道場の行法(呼吸身法)あるいは、それに準ずる身体行法をあるレヴェル以上の水準で日々実践している人があくまで身体表現、身体表出として書くこと。
もう少し詳しくいうとあるレヴェル以上の身体能力の持ち主、すわなち“言語知”(頭脳知)を相対化しうる“身体知”を確立するレヴェルまで行法を修めた人が書くということです。
しかも、その内部身体に立ち上がってくることを虚構化せずにありのままにイマジネーションやフィクションを極力交えずに書くということ。
したがって、ここで文学的とは詩的に美しくということでも小説的におもしろくということでもありません。
例えばそこで参考になるのは道元の『正法眼蔵』です。

“内部身体”の言語化への挑戦への二つ目の道、それは“内部身体”で実感したことを理念化あるいは理論化すること、あるいは逆に言語の理念化の解体、脱理論化を行うことです。おそらくそれは言語によるもっとも本質的な哲学的創造だと思っております。
このことは自然科学のそれのようにその理念も理論も固定化することがともすると命取りになってしまうようなことをおのずと避ける最高の意味で人文学の総合知への飽くことなき挑戦になるであろうと思われます。
ここで参考になるのはシャカや大乗教典の言葉、禅語録、老子、荘子の言葉、およびエックハルトやマルチン・ブーバなどの神秘主義哲学者の言葉でしょう。

もうひとつ最後に、“内部身体”の言語化への三つ目の道も私たちは考えています。
この道はある水準の“内部身体”が確立された時に“内部身体”とパラレルに現われる“外部身体”を理論化する方法です。
さらには、ある水準に“内部身体”(身体知)を高めるための方法あるいは方法論としての言語の構築ということです。
したがって、この第三の道は、厳密にいえば“内部身体”そのもの(内実・時間と空間)の言語化ではなく、“内部身体”を成立させる構造物(伽藍)の構築法についての理論だと、さらにいえば、ある身体的高みまで登るために、仮に創る“はしご”の創り方の理論だと
(当然この“はしご”は高みまで登った時点で不用になります。)いえるかもしれません。

最後にまとめておきましょう。
身体について展開している従来の西洋哲学は、言語を介してあくまで身体に“ついて”の哲学であり、私たちのいう直接的な身体“の”哲学ではなかった。
そこで、行法に慣れ親しんでいる日本人(東洋人)である私たちは、これまで西洋にはなかった身体(の)哲学を西洋近代のラショナリズム(理性主義・合理主義)にしばられずに頭脳的だけではなく、身体的に、そして実践的に試みようというわけです。
いい換えれば、身体について対象化して客観的に語りうること、つまり“外部身体”については、とことんexplicite(明瞭)に語り、
客観的に明瞭に語れないこと、体験を通さなくては語れないこと、つまり暗示的(implicite)にしか語れないことは、レトリックを用いずに、ゴマカサズ、韜晦(トウカイ)せずにとことん突きつめて、示唆的に、しかし、あくまで真摯に語るということです。

もうひとつ最後に身体哲学について大切なことを付け加えておきます。
頭脳知の世界ではイノセント(innocent)つまり、「無垢」、「無邪氣」はしばしば「お目でたい人」、「まぬけ」、「アホ」というネガティブな意味になります。
確かに頭脳知の哲学者にとってイグノランス(ignorance・無知)に通じるイノセントは悪徳であるのかもしれません。
しかし、身体知をめざす身体哲学者にとってイノセント(無垢・無邪氣)は最大の美徳なのです。
なぜならば、身体知は最終的に邪氣(狡知・分別知)の対極にある不邪氣な正氣(無分別知)に満ちた世界をめざすからです。