高僧の境地、トランセンデンタール(超越的)とは

身体や身体と心の関係性が気になっている人にとって、高僧の境地や武術の達人の身体性がどんなものなのか、関心を引くようです。

哲学者木田元と精神科医計見一雄の大変興味深い対談集『精神の哲学・肉体の哲学』の最終章でも哲学者木田元の口から「修行を積んだ高僧とか武術の達人」ということばが出てきます。

この哲学者木田元の発言については「アメリカの<負の文化>を輸入したスピリチュアルブーム」であらためて触れますが、私は多くの人が同一のものと混同しがちな高僧の境地と武術の達人の身体性を分けて考えています。

身体的に見て、この二つはある時点まで共通性があるが、ある段階から異なるからです。

高僧と武術の達人の身体性のどこが違うかを知りたい人は、「武道・武術の達人の身体と高僧の身体」を御覧下さい。

高僧の境地、すなわち“悟った”といわれている心(精神)身の超越的な状態を西洋では一般に「天から啓示を受ける」、「目覚める」、「智恵の灯がともされる」、「本質(知)が顕現する」という意味でレヴェレーション(revelation)、スピリチュアル・アウェイクニング(spiritual awakening)、エンライトンメント(enlightenment)、あるいはエピファニー(epiphany)といい、より専門的には中世スコラ哲学以降、近代カントの哲学および現代アメリカの心理学ではトランセンデンタール(transcendental)といいます。

ここでは古くから慣用的に使われているスピリチュアル・アウェイクニングやエンライトンメントといった分ったような分らないような多分に暗示的で文学的、観念的な表現ではなく、より思索的、哲学的で近代から現在にかけて多く使われているトランセンデンタールということばから入っていきたいと思います。

 

カントの批判哲学やフッサールの現象学さらにはハイデガーの存在哲学で多く使われている超越性(transzndental)には大きくいって二つの意味があります。

ひとつは主観も客観も含めて日常的な先入観、思い込みから解き放たれた意識(心)をいい、もうひとつは、日本語での超越性や悟りに近い、目の前にある個人的な現実や現世を超え、ある意味で形而上学的な神のような普遍的な視点の意識をいいます。

ところで、ここで確かめておきたい重要なことがあります。

それは高僧の境地、あるいは“悟り”という状態を西洋語のトランセンデンタール(超越性)の延長線上でそのまま心(精神)の状態だと考えていいのだろうかということです。

そこでの身体を無視していいのかという問題です。

いい換えれば、高僧の境地や“悟り”は、心(精神)の状態か、あるいは身体の状態か、さらには心と身体の双方に及んだ状態か。

双方に及んだ状態だとすれば、そこでの心と身体の関係性はどうなっているのかということです。

しかし、ここではいわゆる心身問題には立ち入りません。

そもそも心身問題は問題の設定そのものに無理がある(位相の違うものを並列にならべて比較したりその因果性を強引に論じようとしている)からです。

ヨーロッパ哲学の世界でこの身体の問題が明確に取り上げられるようになったのは20世紀に入り、ベルクソン、メルロ=ポンティというフランスの身体哲学とギブソンというアメリカの身体心理学者が登場してからですが、やはり20世紀の哲学の主流は、意識(心)の哲学でした。

ところが、20世紀の末から21世紀にかけて、主にアメリカでギリシャ以来のヨーロッパ哲学の総批判が起こりました。

そのひとつは、言語学者ジョージ・レイコフと認知科学者マーク・ジョンソンが書いた『肉中の哲学』(原題:PHILOSOPHY IN THE FLESH)で、そこには「The mind is inherently embodied」(心はそもそも身体性だ)とありました。

ちなみにこの『肉中の哲学』を翻訳したのが、先に紹介した哲学者木田元と『精神の哲学・肉体の哲学』で対談をしている精神科医計見一雄なのです。

この「The mind is inherently embodied」(心はそもそも身体性だ)という表現は非常に刺激的で、私が初めてこのことばを10年程前たまたま丸善で買ってきた『PHILOSOPHY IN THE FLESH』という本の冒頭で見つけたとき、少し大げさに聞こえるかもしれませんが、しばらく時間が止まっていたような、異次元にいるような氣がしました。

少なくとも私には、その時、二千数百年間歴史を牽引してきた西洋哲学の知のパラダイムが大きく変わったのだと実感したのです。

もうひとつ、心(意識)から身体へという大きなパラダイムチェンジを感じさせた知の登場は、今年の正月に手にした春秋社の出ている「現代哲学への招待」シリーズの中の気鋭の哲学者アルヴァ・ノエ著『知覚のなかの行為』でした。

その背表紙には、「意識は脳のなかにはない」と書いてありますが、これもまだ脳ブームの中で何でも脳だと考えている日本人には十分刺激的なことばだといえましょう。

その帯には「知覚は受け身の何かではない。意識は頭のなかにあるのではない。……脳と身体と環境の相互作用のなかで知識と思考を活用しながら私たちが能動的につくりあげていくものとしての知覚を全面的に主張する」とあります。

この本はまさにメルロ=ポンティの『知覚の現象学』に続く身体哲学の名著といえるものです。