<心>で悟るのか、<身体>で悟るのか

高僧の境地、“悟り”という超越性が心(精神)の状態なのか、身体の状態なのかを考える時、大変参考になるものがあります。

アメリカの心理学者で自己実現理論を立ち上げ、人間性心理学、さらにはトランスパーソナル心理学の創始者といわれるアブラハム・マズローが超越者(transcendenter)の特徴としてあげている11の特徴です。

1.「在ること」(Being)の世界についてよく知っている
2.「在ること」(Being)のレヴェルにおいて生きている
3.統合された意識を持つ
4.落ち着いていて、瞑想的な認知をする
5.深い洞察を得た経験が今までにある
6.他者の不幸に罪悪感を抱く
7.創造的である
8.謙虚である
9.聡明である
10.多視点的な思考ができる
11.外見は普通である(very normal on the outside)

このマズローによる超越者の特徴分析はそれなりによくできています。

1.の「在ること」(Being)はハイデガーの<世界内存在>としての「在ること」と考えれば分りやすいでしょう。

これは本来、坐禅などの身体的実践を通して獲得するものですが、西洋ではこれを知るという意識(心)の言語的認知を通して、哲学的な自己認知であり、世界認知として確認するのが一般です。

2.の「在ること」(Being)のレヴェルにおいて生きているということは、<世界内存在>として存在論的に生きていることでしょうが、これが本当に身体的に実現されているということがどんなことなのか、具体的なあるいは客観的な特徴が示せないと甘い思い込み(心)に流されてしまうでしょう。

3.の統合された意識を持つ、も4.の落ち着いていて、瞑想的な認知とする、も哲学的、心理学的な意識(心)の認知です。

5.の深い洞察を得た経験が今までにある、はわずかに身体的な“気づき”(awareness)の状態を示していますが、「今までにある」、つまり、一、二回はそんな経験があったという程度の“気づき”では東洋では超越者とは呼ばないでしょう。

いづれにしても、超越者であることにおける身体の重要性が東洋に比べて著しく低いことが分ります。

以下、6.他者の不幸に罪悪感を抱く、7.創造的である、8.謙虚である、9.聡明である、10.多視点的な思考ができる、はみな心あるいは頭の状態です。

また、11.の外見は普通である、はもちろん身体的特徴ですが、超越者という、普通の人より内実のすぐれた人間性がその表面には特徴として表れないというのだから、当たり前の意味での超越者の身体的特徴とはいえません。

しかし、逆説めきますが、マズローが超越者(transcendenter)の特徴の最後にこの11.を加えていることは、ある意味では大変重要であり、超越者を判定するマズローの見識が、十分に冷静な良識に裏付けられていることを示しています。

ようするに、「天才と気遣いは紙ひとえ」という表現にある外見も狂人じみた異常な能力(知性であれ感性であれ)の持ち主と高僧や悟った人に当る超越者(transcendenter)とは区別しなければならないからです。

麻原彰光を思い出すまでもなく、見るからに異常な風貌の占い師や祈祷家、チャネラー、治療師、宗教家は決して超越者ではないということを憶えておく必要があります。

マズローのあげた超越者(transcendenter)の11個の特徴全般を眺めてみて気づくことは、マズローを代表とする西洋人は悟りといった高い境地、すなわち超越者(transcendenter)とは、11番目を除いて、10のうち8つ、つまりほとんど心(意識)や精神の状態だと考えていることが分ります。

これは、悟りのような高僧の境地を“変性意識”(Altered States of Consciousness)ととらえたチャールズ・タートやケン・ウィルバーを始めとしたトランスパーソナル系の心理学にも顕著に表れています。

そして、ここから様々なアメリカ心理学系のセラピーという発想が生れてくるのです。

マズローはこの11の特徴を持つ超越者(transcendenter)のレヴェルに達している人は人口の2%ほどいるといいます。

人口の2%とは50人に1人、私の世代でいうと小、中学校で1クラスに1人悟った人がいるということになります。(そんなバカな!)

ここにも行法というものの歴史がない西洋(アメリカ)と少なくとも3000年、日本でも1500年以上の行法の歴史を持つ東洋(日本)との違いが表れています。

日本人でいえば、“悟った人”(超越者)は昔(奈良、平安の時代から江戸、明治期まで)でも1000人に1人いるかいないか、現代ではおそらく10万人に1人、いや100万人に1人もいないのではないでしょうか。

そして、端的にいって、悟っているか、いないかの違いは東洋ではその人の心を表わすことばによってではなく、その人の存在感や生き方そのものとしての身体性によって判断します。

ことばはあくまでもその人の身体性の表われのひとつとして理解されるのです。

ここに、“身体”か“ロゴス”かという東洋と西洋の決定的で本質的な文化的価値規準の違いが表れてきます。

その西洋のロゴス主義が“変性意識”という“悟り”の概念を生んだアメリカの心理学にも深く影を落としているといえましょう。

しかし、本来東洋的な高僧の境地である“悟り”や“超越性”はあくまで身体性を土台としてとらえるべきです。

そのために日本でも連綿と続く行法の歴史があるのですから。

個人的にいえば、私の30年ほどの行法の経験からいっても、ここでは具体的には述べませんが、アメリカ心理学系のセラピーの呼吸法を始めとする身体行法はイメージを多く用いた恣意的で表面的なものがほとんどで、ひとことでいえば稚拙という他ありません。

例えば、“変性意識”ということばを考案した『トランスパーソナル心理学』の著者チャールズ・タートは、合氣道の有段者だと誇らしげに語りますが、合氣道の二、三段がどの程度の身体性の持ち主かということは行法の素人にとってはアメリカ人はもちろん、多くの日本人も知らないということなのです。

武道家の身体性は師範クラスの人だとしても、ほとんど超越性(超越的身体)とはほど遠いというのが現状です。

また、当然、同様にしてケン・ウィルバーの坐禅経験がどの程度のものかは、彼の書かれた書物によっても見る人が見れば明らかですが、はっきりいって、私はケン・ウィルバーの坐禅体験をほとんど信用していません。

そして、そうした事情は今述べてきたヨーロッパの哲学やアメリカ心理学のロゴス主義、精神主義を考えると当然の成り行きということになります。

身体あるいは身体技法に関する感性と問題意識がほとんど成熟していないということです。