勇﨑 賀雄(ゆうざき よしお)
1949年 東京生まれ
早稲田大学文学部卒業
幼少期よりからだを動かすことを好む。幼稚園で紙飛行機を飛ばしていると、突然右腕がダラッと垂れ下がり全く動かなくなる。すぐ近くの「ほねつぎ」という看板のかかった柔道道場に連れて行かれ、あっという間に腕は元通りに動くようになる。何のことはない。ヒジの関節がはずれてしまったのだ。これが、最初の骨体験だった。関節がはずれてしまえば、からだは全く機能しなくなるのである。 それが縁で小学1年からその名門柔道道場で柔道を始める。腕を一瞬で治してくれた老人はその道場で大(おお)先生と呼ばれていた。なんでも、柔道の神様といわれた三船久蔵と講道館で同期だったという。柔道はめきめきと腕を上げていったが、最も印象深い経験は、三船十段の空気投げを直に見たことだった。信じられない氣の達人の世界に触れたのだ。以後、小・中学校時代は、ドッチボール、野球、テニス、バスケットボール、バレーボールなど様々な球技スポーツに親しんだが、一方で個人技としての空中回転やバク転、鉄棒などの体操の動きに興味を持ち、様々なからだの動きを工夫した。 10代終わりから20代の初めは、いわゆる学生運動の激しかった時代である。そんな時代の特筆すべきことは、18才の時に数学塾を経営していた数学者(教育者)と出会ったことである。佐藤勝彦という一回り上の若き数学者は遠山 啓という著名な数学者と親しく、遠山 啓の創立した数学教育協議会の主要メンバーだった。同時に、佐藤先生は東大の学生、大学院生の時、体操部の選手(当時の東大体操部は水準が高く、筑波大学、日本体育大学と競っていた)であり、就職した三菱重工では、水泳(バタフライ)の記録を持っていた大のスポーツ好き、プロレス好きであった。佐藤先生とは様々なスポーツ談義を交わし、私がボーリングを教え、徒手体操は佐藤先生から習った。1人目の恩師である佐藤先生の元には約10年通い、数学、哲学、言語学を学び、佐藤先生からからは「教育とは、出来る人を教えるのではなく、よく出来ない人を育てることだ」ということ、さらに「けっして生徒を見捨てない」という教育の原点を教わった。この教えはその後の私に限りない影響を与えた。 その時代に2人目の師と出会うことになる。 大学には哲学を学びに行ったが、大学紛争の時代であり、いたずらに観念的な思考を巡らせる既成の哲学という学問に早々に疑問を持つようになっていた。そんな時、出会った本が市川 浩の『精神としての身体』であった。市川 浩は京都大学でフランス文学を専攻し、ポール・ヴァレリーという身体性溢れる詩人の研究をして、卒業後毎日新聞で数年間記者生活をしてから、東京大学の大学院(人文科学研究科)に入り、ベルクソンを中心に身体論(身体の哲学)の研究をして東邦大学助教授から明治大学の教授になった。私が直接お会いして、教えを受けたのは30代になってからの数年間だったが、市川先生は間違いなく2人目の恩師であった。市川 浩の身体論は西洋の文学・哲学だけではなく、東洋の哲学・文化が包摂されているが、それは市川先生の御尊父市川白弦が珍しい社会派の臨済宗の僧侶であることが関係していると思われる。市川白弦は仏教の戦争責任を追及した数少ない仏教者で、小田 実と鶴見俊輔が創ったベ平連のデモに参加している。私自身も小田 実とはかなり親しく話をし、ベ平連のデモにも何度か参加した。市川先生は文字通り温厚な人柄で交際も広く身体のことを日本で初めて哲学、学問の領域に広げたにもかかわらず(歌舞伎・能や武道や踊りにも関心を持っていました)当時の東大閥、ドイツ哲学閥に阻まれて、支持者も限られ(哲学者中村 雄二郎氏が数少ない協力者でした)後継者も育たたない状態に終わったのはとても残念でした。2人目の恩師市川先生から教わったことは、まず、からだについての繊細な感性と目の付け所の斬新であり、人となりとしては人の話をよく聞くという態度、真摯な身体への基本姿勢でした。 そして、3人目の師との出合いは劇的でした。20代はほぼ勉強に明け暮れていたので、30代に入って間もなく、なまってきたからだを立て直そうと、近所の合気道道場に通うことにしたのです。まず、時間が作りやすい朝稽古に通い始めました。すると、30代後半のインテリの館長から日曜の夜のクラスには凄い師範が教えに来るから、一度来ないかと誘われたのです。それで、日曜の夜のクラスに参加したのです。 そこで見た光景は一生忘れられない鮮烈なものでした。今でも鮮やかに思い出すことが出来ます。幼少期から柔道をやり、小・中学校ではまず相撲で負けたことがない私が、まさに三船久蔵以来忘れていた、氣の妙法の世界に再び出会ったのでした。西野皓三師範の既成の合気道とは全く違っていました。まさに私が小学校の時に見た三船久蔵と同じ、いやそれ以上とも思えました。私は小さい時から運動神経バツグンといわれてきました。しかし、その時見た西野皓三師範の動きと技は「しゃっちょこだちしても出来ない」ということばがそのまま当てはまるようなものでした。しかもこの上なく美しいのです。これは西野皓三先生が、本格的にバレエをマスターしていたからに他なりません。 西野皓三先生は、戦後間もない頃、大阪の前途有望な医学生でありながら、芸術に憧れてバレエダンサーを志ました。阪急電鉄を大きく発展された鬼才小林一三が創設した宝塚歌劇団の男性ダンサーの募集に公募して100倍近い倍率を突破して合格し、後に本場アメリカニューヨークのメトロポリタンオペラバレエスクールに留学しました。これは、当時画期的なことでした。帰国後、西野先生は西野バレエ団を創りバレエ団としてまず成功し、更にテレビの創成期に芸能界で番組創りや振り付けなど数々の偉業を成し遂げました。 その西野皓三先生は50代に入ってから合気道を始め、数年で氣の極意を掴まれ、1980年代に西野塾という呼吸法の道場を起ち上げました。私は西野先生から直々にオファーを受けその黎明期から10年間ほぼ内弟子として西野先生に使え、呼吸法と氣の極意を身に付けました。この体験が私の身体哲学の一番大きな力になったことは言うまでもありません。西野皓三先生は2020年94歳で天寿を全うされました。千年に一人の弘法大師、五百年に一人の世阿弥とまではいかなくても、西野先生は間違いなく百年、二百年に一人の天才でしょう。そんな何人か秀才や天才の師に恵まれ、私の身体哲学は生まれました。そして、今も成長、進化していると信じています。 30代半ば、 西野流呼吸法道場・西野塾の創設期から16年間指導部長、教務部長として指導に当る。 2000年、 50歳で独立し身体哲学道場(後からだの学校)・湧氣塾を立ち上げる。 2008年身体哲学研究所を設立。 著書に 『阿修羅の呼吸と身体――身体論の彼方へ』(現代書林) 『脳ひとり歩き時代』(河出書房新社) 『骨革命』(主婦の友社) 『50歳からは「筋トレ」をしてはいけない』(講談社) 『「80歳の壁」を越えたければ足の親指を鍛えなさい』(講談社) 監修書 『まだ遅くないー痛い・つらい・歩けないー身体が変わるー骨体操』(パブラボ) 『100歳でもジャンプができるー1分ポコポコ骨たたき体操』 (講談社) DVD 『坐禅身法』 『女性身法』 『阿修羅の骨呼吸体操』